相馬主計~相馬主計~(そうまかずえ)天保14年常陸笠間藩船橋平八郎の子として生まれる 慶応3年京都で入隊(元治元年説もあり)局長付 慶応4年近藤が捕縛されると土方さんと共に江戸へ赴き、勝海舟らの書状3通を板橋の本営に届け捕縛される。 近藤さん処刑後、野村とともに釈放されるがすでに新選組は奥州へ発った後であり、江戸も西軍であふれ返っている。 このままでは新選組に合流できない。そんな思いをめぐらせていたであろう二人は、彰義隊の生き残り春日左衛門が兵を挙げることを知りこれに入隊。共に北を目指す。 仙台で土方さんたち新選組に再会し、蝦夷へ渡る。 蝦夷政府樹立のとき土方さん直属の陸軍奉行添役となる 明治2年3月、宮古湾の海戦にも参加するが負傷、この戦で仲良しの野村を失う。 同5月、土方さん戦死後、五稜郭に先立って弁天台場が降伏。この時相馬は最後の隊長として隊を取りまとめた。 榎本らが降伏後東京へと送られ、明治3年10月に流罪終身刑となり新島に送られた。 そこでは島民に読み書きを教え、居宅の別室を自ら造り、島に住んでいたマツと結婚しささやかながら穏やかな生活を送っていたと思われる。しかし、その生活も長くは続かない 明治5年、政府より終身刑を言い渡されたはずの相馬に釈放の命が下る。妻と共に島を離れ、東京と名を変えた土地で新しい生活を送っていた相馬だがある日突然介錯なしの切腹をして果てたと言われている いったい彼に何があったのか、それを知るすべはない ちなみに流人船は品川から出航して浦賀へ行き、ここで流人の最終チェックをして島へ行く。 浦賀は中島さんたち千代台台場チームがいたところ。 当然知り合いだったろう中島チームがほとんど全滅したあとの浦賀へ生きて連れて来られた相馬さんはそこでどんなものを見て、何を感じたんだろう? 流人に対する浦賀奉行所の仕事は明治5年には横浜へ移ったので、釈放された相馬さんは浦賀を通ったのか、新しい横浜を通ったのか…。 ジャンル別一覧
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